自分の存在。
先日のこと、sexual minorityの方と発達障害持ちの方と
夜ご飯に行っていたときのこと。
世間的にはminorityなので、その人達の生きにくさを笑い話で聞いていた。
感覚過敏の辛さ(自転車の乗り心地の悪さ、広いスペースでの会話など)や
それに伴う自己肯定感の低さ。
話を聞く中で、私はなぜ幼い頃からこのような
場所へ自分の気持ちを吐露していたのか少し理解が進んだ。
私は彼や彼女のような目に見えるような生きにくさはないものの、
性的嗜好のおかげで随分頭を悩ませてきた。
そのおかげで、色々な機会を失うこともあれば、
絶対知り合わないような人達ともやり取りができている。
私は、世の中的でいうところの
「自分らしくありなさい」
「性的なものは公にするものではない、性的アブノーマル=性的には正常ではない」
がどのような概念であるのかは自分の中でよく理解しているし、
それを踏まえてどのように振舞えばいいのかを理解している。
だからこそ、表では決して話すこともないし、公に最適な振舞いをしている。
要は、本当の自分にうそをついて存在している。
自分らしく、自分らしくを追求すればするほど、本来社会的に
求められる自分とは乖離していく。
だから私はここで吐き出す。
私のブログの表現が独特で、そしてひとにぎりのコアなファンがいることを
私は承知している。
ちゃんとお話したことはないけれど、きっと私のどこかの部分で共感できる
からなのだろうと思う。
今のmajorityでは私の私らしくは不可能だ。
だから違う世界で、私は私らしくあろうと思う。
本当はこんなスペースに書くのではなく、5次元とか6次元の空間に
吐き出したいくらいだ。